とーちゃんのライフチャート-その1

2023-07-30

はじめに

前回のブログでも投稿しましたが、年収500万(月収だと約41万円程度になるのかな?)から無事に 見込み年収1200万(月収100万円) に到達することができました。
( ちなみに、ここから税金がひかれますので、可処分所得はもっと少なくなりますね(^_^;) )

妻はまだ「喜び」と「驚き」と「僕の体の負担への心配」が混ざっているようですが、少しずつ不労所得を増やしていこうと思っています。

今の年齢で働き続けるのはしんどいですからね。

自分について語らせてください

2月から「このままではまずい!行動しなければ!」と動き出し、劇的に環境が変わりだした半年でした。

それまでは平凡どころか同年代の中でも給与が最も少ない状況でした。
子供の頃など、親が借金していたこともあり、かなり貧乏な生活をしていました。

しかし、僕の代でそれを断ち切ることができたのではないかと思っています。

そんなとーちゃんの今までの人生を少し聞いてもらいたく、記事にまとめることにしました。

本当に誰かに聞いてほしかったんです。

自分の過去を振り返り、まとめる機会

40歳を過ぎて、びっくりしたことがあります。
自分の過去の記憶がどんどん消えていくということです。

子供の頃は自分の母が過去のことを思い出せない様子を見ていて「自分も歳をとったらこうなってしまうのか?」と心配していました。

ところが、20歳、30歳と歳を取ってみても、全く自分の記憶が消えないため、「歳をとったら記憶が消えていくなんて嘘なんだな。」と思っていました。

更に時間が過ぎて40歳を超えた今、記憶が消えていくことにびっくりしています。

年齢とともに脳の機能が弱くなっているのでしょう。
過去のことを振り返る余裕なんてないので、脳がいらない記憶と扱っているのかもしれません。毎日5人のこどもたちに囲まれて慌ただしいですからね(^_^;)

そこで、自分の過去について少し整理しておこうという狙いもありました。

あんまり細かいことをネット上に掲載すると身元がバレてしまう?

あんまり細かいことをネット上に掲載すると身元がバレてしまう?という心配もありましたが、どうなんでしょうね?

ほとんどアクセスがないとーちゃんのブログなので、大丈夫なのではないでしょうか?と思います。

ちょっとだけ変わった家庭環境

ちょっとだけ変わった家庭環境なので、その点については多少読み物として面白いのではないかと思います。

文章力はないので散文となり読みにくさは残ると思いますが、その点はご了承ください。

「こんな変わった人もいるんだな、でも5人のこどもをもって平凡に暮らせるんだな」と感じていただければ嬉しいです。

幼少期

それでは、散文となりますがぜひお付き合いいただければと思います。
あまり詳細を掲載するとすぐに特定されるため、ぼかして記載してみます。

3歳

僕は197X年に生まれました。

一番はじめの記憶は、保育園で子どもたちの中で遊んでいる光景です。
大きな正方形の広間の中にいます。結構な大きさで、小学校の体育館の1/4ぐらいでしょうか。
周りになにもないのですが、1辺の壁の真ん中にテレビが置かれています。
そのテレビを見ながらみんなで踊っているんですね。「おかあさんといっしょ」だと思います。
年齢は3歳ぐらいです。
おそらく幼稚園ではないです。なぜなら他にお昼寝の時間があってひたすら寝かされる、という記憶があるからです。
僕の5人の子どもたちは幼稚園に通わせていますが、幼稚園にはお昼寝の時間はありません。

4歳〜6歳

そこから記憶が飛んで、次の記憶は4歳ぐらいになります。
アパートに住んでいました。大きさは4世帯が暮らせるぐらいの大きさです。一階に2世帯、二階に2世帯。それぞれ入り口は別れています。
2LDKぐらいの大きさです。僕の住んでいたところは田舎なので、そのぐらいの大きさでも家賃は3万円ぐらいだったと、後に母が言っていました。
一番奥の部屋には2段ベッドがあり、下の段は姉のベッド、上の段は僕のベッドでした。
どこかから引っ越してきた記憶がうっすらあります。残っていた写真を見ると、頻繁に引っ越しをしていたようです。

このときからようやく家族の記憶が残っています。家族構成は僕、兄、姉、母の4人なのですが、本当にたまに父が帰ってきました。
この「たまに」「帰ってくる」というのが6歳ぐらいになるまでなんの違和感も感じていませんでした。6歳ぐらいになってようやく他の家庭の様子に触れる機会が生まれたりして、「何かがおかしい。」と感じる様になってきました。
なぜ「たまに」「帰ってくる」のか?というのは更に大きくなってから知ることになりました。
この頃の父の年齢は、55歳ぐらいのはずです。もちろん当時はわかりませんでしたが、亡くなったあと戸籍などを見て計算しわかりました。

兄は知的障害者なのですが、子供の頃はそんなことわかりませんでした。
僕にとっては普通の人間の一人であり、何故区別するのかがわかりませんでした。
「母親や社会が甘やかしているのではないか?」と思ったぐらいです。
兄とはよく一緒に遊んだり、喧嘩したりもしました。ただ力の加減がわからないときがあり、一緒に風呂に入っているときに頭を押し付けられて溺れかけたことが何度か有りました。

姉は僕と11歳離れています。姉とは喧嘩した記憶はありません。
とにかく可愛がってくれた記憶があります。たくさん抱っこしてくれたし、ちょっとしたことを褒めてくれました。
一緒に大きなプールで遊んだことを今でも覚えています。

母は、僕たち子どもたちにはとても優しい母親でした。

再び父の話に戻りますが、父はというと二面性がありました。「とても怖い」存在であると同時に「とても優しい」存在だったのです。
僕のことを膝にのせ、できたことを純粋に褒めてくれました。
「○○は父っ子だなぁ。兄は母っ子だけど。」と笑いながら言っている父が嬉しそうで、それを見ている自分も嬉しかった記憶があります。
僕とはそんな風でしたが、姉とはいつも喧嘩をしていました。
喧嘩と言っても一方的なわけで、姉がグーで殴られていました。
今でも怒られているときのセリフを覚えています。
「返事は"はい"だろうが!返事は!」と父が言い、それに姉が答えず殴られる、というのが何度かあったと記憶しています。
その時の母の記憶が余り覚えていないのですが、間に入って止めていたような気もします。
僕は、母も姉も父も三人とも好きだったので、この状況で心が引き裂かれる思いでした。
混乱した気持ちと同時に心を自分から少し切り離してぼーっとするようなことができるようになっていた気がします。
そんなあらあらしい父も、僕と二人きりになると普段の優しい父に戻るのです。
ですので僕には父が悪いのか、姉が悪いのかさっぱりわからないといった状況でした。

この頃のかわった出来事として覚えているのがある夜のことです。
夜に自販機に飲み物を買いに行った姉が息を荒げて帰ってきました。
「ヤクザが直ぐ近くに来てる」みたいなことを言っていたと思います。
母が急いで家の電気を消し、姉、兄、僕に何もしゃべらないように布団の中で静かにしているように言いました。
やはり当時の僕からすると、何故ヤクザが来ていると僕たちの家族だけ明かりを消して静かにしていなければならないのかがさっぱりわかりませんでした。
誰にも聞いたわけではないのですが、おそらく借金の取り立てだったのだと思います。
頻繁に引っ越ししていた理由も借金取りから逃げるためだったのではないかと思っています。

この頃の話は僕の中ではタブーとなっていて、今も健在の母や姉には聞くことができません。
聞いてしまったら家族という大事な関係が壊れてしまうのではないか?という気持ちがあります。

僕は3歳ぐらいの頃とは別の保育園にかよっていました。
キリスト教系の保育園で、キリスト教の教えが日常の中に組み込まれていました。
ですので「あなたは神を信じますか?」という言葉の意味がさっぱりわかりませんでした。
「信じるってなんだろう?あなたは母親を信じますか?と言われてもすでに"いる"よね?」という感覚です。
「あ、違う。神が"残した言葉"を信じますか?という意味なんだ!」などいろいろ解釈の修正を繰り返していました。
「死ぬ」ということに恐怖していました。死んだらどうなるのか?
今「考えて」いるこの意識が、電気を消した瞬間のように「ふっ」と消えてしまう。その後に何が残るのだろう?
わからなくなって母親に「死んだらどうなるの?全てなくなってしまうの?」と聞き、ものすごい剣幕で怒られました。
「子供はそんなこと考えたらだめだ!」
僕は、「大人は自分がわからないことを聞かれると怒るものなのだ」と思いました。
キリスト教の保育園で成長した経験は僕の中では大きいものだったと思います。
大学卒業近くまで常に「誰かに見られている」感覚のまま成長してきました。
これはよく働きもしました。常に正しいことを行う、なぜなら必ず見てくれているから。という僕の基本原則になってはいました。


とーちゃんのライフチャート-その2 に 続く

ひとこと

まだまだ幼少期のことは続きます。
文体が全体的に重く感じられないことを祈っています。

Posted by tochan