金持ちとーちゃんのライフチャート-その 2

2021-06-28

はじめに

前回に引き続き、なんとか稼げるようになってきた現在までの金持ちとーちゃんの人生を振り返ってみます。

知らないおじさんの人生に興味はないでしょうが、
それでも少しだけ変わった家庭環境で育ったということで読み物として少しは楽しめるかもしれないと思い、
まとめております。

ここまでで少しでも興味を持っていただけたら読みすすめていただけると幸いです。

幼少期

それでは、散文となりますがぜひお付き合いいただければと思います。
あまり詳細を掲載するとすぐに特定されるため、ぼかして記載してみます。

4 歳〜6 歳 (続き)

文章にしてまとめだすと、消えたと思っていた記憶がどんどん戻ってきて懐かしく感じられます。

前回幼少期の出来事をまとめましたが、どんどん記憶が戻ってきて終わりが見えなくなってきましたが続けさせてください。

僕は喘息+アレルギー性鼻炎持ちでした。
夜になると首を絞められたように呼吸が苦しくなります。なかなか息ができないのです。
同時に花粉の季節には鼻がつまりあわせ技で苦しみました。
また、4歳ぐらいのときには理由はわかりませんが手術をするために入院しました。
頻繁に 自家中毒 という病気(なのかな?)で吐いたり腹痛で苦しんで点滴を打っていました。

ある時、父が僕を連れて車で遠出をしました。
行き先は僕の生まれ故郷の青森(もう書いてしまおう)から南の県である秋田県です。
東北の県をまたいだ移動は、関東圏、関西圏とは全く異なり長時間の移動で退屈なものになります。

どのぐらい車に乗っていたか覚えていません。
そのうち、知らない人の家に到着しました。
父となかにお邪魔し、知らないおばさんに「大きくなったねぇ」と言われていたような記憶があります。

その後父は用事がありどこかへ行ってしまいました。数時間は不在だったのではないでしょうか?
残った僕はその家の女の子と一緒にファミコンをして遊んでいました。僕より 4 歳ぐらい上のお姉ちゃんでした。
僕のことをかわいがってくれました。当時の僕は可愛らしい顔をしていたのでしょう。それから人の顔色を伺うのが得意だったので、目上の、特に女性にはとてもかわいがってもらった気がします。
そのうち父は帰ってきて、また青森の家に帰る、というようなことが、2 回ほどありました。

この頃は「父の親戚のうちなのかな?」ぐらいに思っていました。
しかし、実際には僕の母方の実家は北海道ですし、父方の実家は東京です。(父方の実家は父がなくなったあと、遺品整理をしている際にわかりました。)
お邪魔した家の方々が父とどのような関係にあるかがわかったのは、父の死後でした。

父が帰ってくるタイミングは夏休みと冬休みのタイミングだった気がします。
家に帰ってくると嬉しくてたまりませんでした。

父は自転車の操作がとても上手でした。
ママチャリを使ってウイリー、後輪ウイリー、自転車ごと上に飛ぶなどいろんな操作ができました。
父は過去に 競輪選手 だったと教えてくれました。
僕は競輪や自転車のことは全くわかりませんが、時々競輪の試合の話を楽しそうにしてくれました。
僕らが乗る自転車は、ある程度走り出したら漕ぐのを止めても進みますが、競輪の自転車は漕ぐのを止めるとすぐ止まってしまうこと。
競輪の試合会場はすり鉢型のトラックで、中央に向かって傾いていること。
相手の後方にぴったりくっつくと空気抵抗がなくなるので体力を温存でき、ゴール直前で一気に抜き去るのが父の得意技だったこと。
競輪選手の給与は随分良く、昔はお金持ちだったがすべて理由があって使ってしまったこと。
競輪選手の知人も今はもうやめて、ほとんどはためた収入で新しい事業を始め平穏に暮らしていること。

僕も自転車は大好きだったので、父に「大きくなったら一緒に自転車で日本一周したい。」と伝えたことがあります。
父は苦笑いしていました。前回も書きましたが、僕が 4 歳の時点ですでに 55 歳 ぐらいだったので、体力に限界が来ていたのでしょう。
「そうだな、俺も頑張らないといけないな。」

今の仕事についても話をしてくれました。
持って帰ってきた写真には、父の身長の2倍もあるタイヤのショベルカーが写っていました。
名古屋でこの車を運転しながら、山を切り崩しているんだと言っていました。
「普段はどこに寝泊まりしているの?」と聞くと、「軽自動車を安くかって、その中で寝泊まりしている」といっていました。
これも今から考えるとすごい生活をしていたものだなと思います。
僕は父が好きだったので「お父さんの跡を継ぎたい」と言ったら「次ぐような仕事じゃないぞ、ハハハッ。」と笑われました。

父とは 2 回だけ旅行しました。
1 回目は下北半島のバンガローに泊まりにいきました。帰りに恐山と六ケ所核燃料再処理工場にいきました。
2 回目は東京です。東京タワーに初めて上り、高くて感動した覚えがあります。夜は車中泊をしました。
今から思うと父の実家は東京なので、親族に会いに行きたかったはずですがそれはしませんでした。

父は帰ってきて一週間ほど家にいた後、すぐに戻っていきました。
4歳の頃は青森駅から出る電車に乗ってどこかへ行ってしまいました。
母と僕と兄で青森駅のホームまで一緒に行き、見送りします。
僕が顔を涙でいっぱいにして「もう帰るの?寂しい。」というと、父は「馬鹿だなぁ。 帰る んじゃなくて 行く の。ハハハッ。」と毎回僕のことを笑っていました。
僕は笑われるのが嫌でしたが、その時の父の顔はいつも以上に優しい顔でした。これも今になって思うのですが、きっと父も涙がこぼれそうになるのをこらえていたのだと思います。

その他に父は、あちこちにお金を 「貸して」 いたようでした。
「人にお金を貸せば、相手も助かるし利子がついて帰ってくる」 といっていましたが、これも遺品整理のときにわかったのですがすべて返済される可能性の低い貸し倒れの約束ばかりでした。
自作の借用書が何枚も見つかりましたが、これがどれだけの執行力があるものか不明なものでした。
青森の山奥に土地を買っていたりもしました。 「土地は値上がりするから今のうちに持っておくんだ。」 と言っていましたが、やはりこれも騙されていたのではないかと思っています。

釣りが大好きな人で、帰ってきたときには釣りにつれていってくれました。
今はもう青森駅付近の海では釣りができませんが、僕の子供の頃は釣りができました。
当時は青森駅の直ぐ側に 「連絡船」 と呼ばれる北海道行きの船の波止場があり、連絡船が出たり入ったりすると潮の流れが変わって魚が連れ出す、といったことがよくありました。
ヒラメ、カレイ、アジ、イワシ、サヨリが大量に連れて、家に帰ってタタキににして食べさせてくれました。
父は手先が器用で釣り竿や釣りの仕掛けを自作していました。仕掛けの付け方、餌の付け方、あたりの当て方なども一緒にいた期間はあまりないにもかかわらず限られた時間で教えてくれました。

家にいない間も、時々は電話をかけてきてくれました。
当時は携帯電話もない上に県外の電話は通話料金が非常に高かったので長いこと話ができません。
父は電話ボックスから電話をしてくれたようです。500円分のテレホンカードを使ってかけてきてくれるのですが、電話中すぐに「プー」っという音がなって、カード残高が減っていくのです。10分も話すことはできなかったのではないでしょうか。
それでも父の声を聞くのが楽しみでした。

こんなふうに父は厳しさもあり、優しさもあり、行動力はありましたが稼ぐのは苦手な人間でした。
そして話はしてくれますが肝心なことは常に自分の心のうちに隠しておく人間でした。


金持ちとーちゃんのライフチャート-その 3 に続く

ひとこと

次回は母と姉のことを書こうと思います。
かけるなら6歳のときに起きた悲劇についても。

Posted by tochan